おとなも天使

おとなも天使

 電車に乗ってここに来る途中だったんだけどね、川崎駅から何人かお客が乗って、さあ出発っていう感じで、ドアが閉まりかかって車体が揺れた。その瞬間、大柄な おじさんがパッと飛び乗ったかと思うとプシューッとドアが閉まったんだ。一瞬ヒヤリとしたよ。ギリギリのところで乗車したその人は、周りの乗客にニヤリと笑みを浮かべたんだ。

 電車が発車した後の おじさんは、最初の立ち位置でチラチラと気にする素振りを見せながら、そのまま動かなくなってしまった。見ると、おじさんが背負っていたリュックサックがドアに挟まって、さながらエアバックが膨らんだ後のようになっていた。幸い、外の障壁に引っかかるほど大きなリュックサックではないと思って、じっと見ていると、羽交い締めにされた おじさんは囁くようにこう言ったんだ。

「次で降りるから…。」

 そうして、電車はさらりと横浜駅へ向かったんだけれど、おじさんは落ち着いた様子で車内を見渡しながら…、僕と目が合った時も薄っすらと微笑みを返してくれて、あの時いい表情してたなぁ。
 もう一生会わない人たちが混ざり合っている中、そのゴミゴミとした淀んだ空気を、おじさんはほっこりと和やかな雰囲気にしてくれたんだ。突然訪れた不条理の中でも光を失わない、フランツ・カフカの「変身」を思い出したよ。「変身」の主人公は毒虫だったけれど、おじさんの姿は…

リュックサックがつぼめた翼に見えて、まるで天使のようだった。

 車内アナウンスが聞こえて電車が横浜駅に近づくと、ほとんどのお客が おじさんから少しづつ離れていった。それから周りの動きがおさまった頃、僕はもう一度 おじさんの顔を確かめてから背を向けて、一番最後に反対側のドアに立ったんだ。

 目の前のドアが開いた瞬間の おじさんの顔、見せてあげたかったよ。別れ際、あんなに優しくて哀愁の漂う表情は、今までに見たことがないよ。本当に忘れられない…。

wing
Spread your little wings and fly away. by Queen

あれぇ?そういえば、次の戸塚駅も ドア左側じゃなかったっけ?

えぇ? その次の大船駅も ドア左なの?

おじさん、どこまで飛んで行っちゃったんだろう…。

< 子どもは天使 >

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